2022
810日、久しぶりに前を通りかかって見つけたのがニッカウヰスキー青山本社の赤いモニュメントの撤去(モノはまだあったけど赤地白抜きのNIKKAの文字は裏表ともなくなってた)。
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 突然?!と思ったら北海道新聞が730日号(「ニッカウヰスキー本店、創業の余市に 70年ぶり、90周年へ「原点回帰」:北海道新聞 どうしん電子版 (hokkaido-np.co.jp) 」)や、日経の北海道版が8月2日号で報じていました。本店所在地は9月1日から余市に。本社機能は東京に残すけれど、8月1日から浅草のアサヒグループ本社ビルに移転したそう。もうすでに8月1日か2日の段階でNIKKAの文字は青山からなくなっていたようです。さみしいですね。

これきっかけにいくつか調べ事をしたので、自分の忘備録として残しておきます。

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所

ニッカウヰスキー東京本社

 南青山・骨董通りのニッカウヰスキー本社ビル(元・・・(´;ω;`))は19833月竣工。鉄骨鉄筋コンクリート5階建て(B3階)で延床面積は8,171㎡(情報によって微差あり)。表参道駅から徒歩5分。(不動産情報)。1階空室があった時の物件情報は、間取り343.80㎡、賃料230万円、敷金2,300万円(現在は募集なし)。


設計は
松田平田設計で、こちらのHPでは延床面積8,713㎡、19823月竣工になっていました。同社は建築家の松田軍平氏が創始者で、代表的な建築物には、創業前にアメリカで設計に携わった日本橋室町の「三井本館」、福岡・久留米の「石橋迎賓館」、銀座の「松屋銀座」、新橋駅前の「ニュー新橋ビル」などがあります。ニッカウヰスキー本社ビルは「【赤レンガタイルと連窓のコンビネーション】重厚な赤いレンガタイルと軽快な連窓のコンビネーションが特徴。区割りの小さな南青山のエリアで、道路斜線にしたがって大きくセットバックすることで、豊かな植栽空間も生んでいる」と紹介しています。

なお、ニッカが1952年に東京に本社を移した際は日本橋が本社。そして竹鶴政孝さんは1979829日に亡くなられているので、マッサンがこのビルにいたことはないのですね。

マッサン

ニッカウヰスキー東京工場

 更にちなみに、本社の東京移転と同じ1952年に開設された東京工場の所在地は麻布北日ヶ窪町と言って、現在の六本木ヒルズ。基本的にボトリング工場と紹介されていますが、竹鶴威さんの回想で「井戸を掘ってその水をブレンドに使っていた」という話が確かあったはずなので、毛利庭園の水はニッカのマザーウォーターと言っていい(短期間だけど)のかも。なお、東京工場は1967年に千葉・柏市に移転したけど、74年まではボトリングラインが稼働。その後79年にテレ朝の所有となっています。

アサヒビール首都圏事業部

 ニッカだけではなくて、アサヒビールも首都圏の営業部とかが今年になって大移動、昔のカルピス本社ビルに集約されているようです。単なる事務所の異動だけならそれほどの話でもないのですが、東京・京橋の「相互館110タワー」を引き払ったらしい(全部か大半かは未確認だけど・・・)のが歴史的には大きな話です。


「相互館110タワー」のルーツは第一生命保険が所有する「第一相互館」で、建築家の辰野金吾が設計し1921年に竣工。1971年に第一生命相互館、2021年に相互館110タワーに建て替えられた趣のある建物です。第一生命が1938年、お堀端に新本社ビル・第一生命館を完成させて転居した後に大日本麦酒(アサヒビールとサッポロビールのルーツ)が入居し、そののちはアサヒビールが大半を借りていたところです。


一度は引っ越した第一生命ですが、終戦直後にGHQが総司令部として第一生命館を接収し、72時間以内の退去を命じられてしまいました。それで途方に暮れた第一生命に手を差し伸べたのが山本爲三郎専務(後のアサヒビール社長)。「自分たちが引き揚げるのですぐにでも荷物を運びこむとよい」と言いフロアを空けた(第一生命・マッカーサー記念室の歴史)という話が残っています。当時のこうした人たちの男気を感じさせる良い話です。

 

ニッカにしろアサヒにしろ、昨今のこうした動きはやはりコロナへの対応を機にした、効率化のための再編というところでしょうか。経営ですからしょうがないとはいえ、歴史を感じさせるものがなくなっていくのはやはり寂しさを感じさせます。

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